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自治会長 金井保治さん
上田市中央6-4-12
月窓寺南側で赤字の標識で鍛冶町会館と書かれている。
上田市のほぼ中央に位置し、北は,上鍛冶町と田町があり、西側には大工町と馬場町、南側は市内 有数の飲食店街に隣接し、棗河岸で有名な蛭沢川、東に押出(おったし)川があり初夏には街中にもかかわらず蛍が舞う自然環境と住環境のバランスのとれたエリアである。
町の歴史や、町名の由来などの概要を150字以内でご記入ください
慶長10年(1605)からの北国街道の整備(城下町の形成)にあわせ(東御市の)海善寺村より鍛冶5軒が移住させられ、その後真田信之公が元和元年(1615)上田の城下町を築いた時鍛冶町をつくり、それぞれ屋敷を拝領し、職人一人につき籾3俵を賜ったという。海善寺村の鍛治屋敷は、その折全員が集団移住させられたという。
又、鍬作りは、領内では鍛冶町のみが 作る許可をもらった。その為「上田の海野鍬」として知られ木曽、松本、諏訪、伊那、高遠、川中島、山中、及び越後境或いは上州あたりまで上田を中心に四五十里に売り出し評判であった。
真田家では、火を取扱う者が多い鍛冶町に火消係を命じ明治8年の消防組制度では一番組とした。明治時代に入ると本陽寺に平民の為の小学校である街学校ができ、月窓寺には明治11年5月に上田中学(現上田高校)の前身である上田変則中学ができ、学問、文化の花開く街となった。
尚、真田正之の時代に上鍛冶町と田町(給人町)は、房山村から接収された地であり、鍛冶町は常田村から接収された町であってその「 境」 が対象15年に開通した坂井田町(鍛冶町自治会内)がその意味をあらわしているという。これは、江戸時代を通じて坂井田町の北側にある本陽寺前に辻番所と自身番が置かれていたことからもわかる。
おすすめ歴史ポイント
本陽寺(妙栄山 本陽寺 日蓮宗)
小諸城主仙石越前の守秀久の正室本陽院殿により小諸に開基創立され、元和8年(1622)上田移封に伴い現地に再建立された。境内には、鬼子母神堂(貞享2年建立で鬼子母神、十羅刹女が祭られている)さらに番神堂があり毎年10月14,15日のザクロ祭りは子授け、安産、子育ての神としての鬼子母神やお番神さんのお祭りで賑わっている。尚、本堂左側の玄関は、上田藩城主館の正面玄関を明治29年に移築したもので、その寸法は以前のものと同じ寸法であるという。明治に入り上田街学校となった。
月窓寺(傳双山 月窓寺 曹洞宗)
真田幸隆の弟である真田(常田)伊豫の守隆永より天正13年(1585)創建される。又、その後の諸堂再興再建の功が大である真田左衛門佐信繁を中興開基としている。(真田信繁戒名 大光院殿月窓傳心大居士)
明治11年5月上田中学(現上田高校)の前身である上田変則中学開学の地であり、前年小学校を卒業した山極勝三郎や小河滋二郎もここで学んだであろう。
押出川と蛭沢川 押出川には毎年6月ごろよりホタルが舞い、蛭沢川は棗河岸として夏から秋の情緒を醸し出している。ネオン街である袋町等に属していると思われるがここまでは鍛冶町である。