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仙石家本陽寺墓所

2024.2.14 | 鍛冶町

種別市指定 史跡・名勝・天然記念物 史跡
指定昭和56年4月8日
所在地中央6-3-3 本陽寺
年代寛文3年〜宝永3年
仙石家墓所
仙石忠俊の墓(宝篋印塔)
おくり名=「春光院殿梅心日香大居士」

鍛冶町の本陽寺客殿東側境内地の一角に、入口が竹垣で一辺が12mほどの正方形に区画された場所に上田城主仙石氏一族の墓が整然と建てられています。

小諸城主仙石秀久夫人の墓を中心に上田城主二代政俊の子供忠俊の墓(いずれも宝篋印塔)のほか五輪塔・舟型・角柱型などの石塔婆が大小11基あります。

建立された年代は、秀久夫人を除くと寛文三年(1663)から但馬(兵庫県)の出石へ国替えになる宝永三年(1706)までの43年間にわたっており、特に幼児の墓が6基もあります。

墓域の東北隅には、三代城主となるはずでありながら28歳の若さで病死した忠俊の墓が宝形造の覆屋の中にあり、前面左右には、10基の石灯籠が並んでいます。墓は損傷もなく、その上、妙法蓮華経と彫られた銘文に金箔がほどこされ、今なお鮮やかに残り、時(時間)の流れを感じさせません。

本陽寺は、秀久の夫人が文禄五年(1596)に亡くなったので、菩提を弔うため建てられた寺で、夫人のおくり名(本陽院殿槃室妙栄大禅定尼)をとって寺の名前としました。元和八年(1622)上田へ国替えになった折に、子供の忠政(上田城主初代)がこの寺と墓を小諸からこの地に移したものです。

上田の地を約80年間にわたり治めた仙石氏に関係する一族の墓の様相がわかる資料といえます。

上田市デジタルアーカイブポータルサイトより転載

自治会名
鍛冶町
キーワード
史跡