赤松小三郎遺髪の墓
2024.2.14 | 鍛冶町
| 種別 | 市指定 史跡・名勝・天然記念物 史跡 |
| 指定 | 昭和53年4月8日 |
| 所在地 | 中央6-4-13 月窓寺 |
| 年代 | 慶応3年 |

幕末、諸外国より開国を迫られ世情が不安定な最中、この難局を救うには公武合体(朝廷と幕府が一緒になること)をし、新しい政治体制を取り入れるべきと幕府に申し立てをし、近代国家誕生に大きな影響を与えた上田藩士赤松小三郎という人物の遺髪を埋めた墓が、月窓寺境内の墓地にあります。
小三郎は、天保二年(1831)上田藩士芦田勘兵衛の二男として木町で生まれ、幼名を清次郎といいました。十八歳の時に江戸へ出て数学・測量・天文・蘭学や洋式砲術などを学びました。
小三郎は、語学にも秀でていて、慶応二年(1866)に『英国歩兵練法』を和訳し、日本の兵制の基礎確立に貢献し、今でもその一部が用いられています。
京都で英国式兵学塾を開いていた時、薩摩藩主(島津侯)より講師として迎えられました。そのときの教え子に東郷平八郎や上村彦之丞ら、明治の海軍の英才たちがいました。
慶応三年(1867)九月三日、京都の伏見から所用で帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ちぶせていた薩摩藩士に襲われ兇刃に倒れました。享年37歳でした。遺骸は京都黒谷の金戒光明寺に手厚く葬られ、その後遺髪は上田へ送られました。

小三郎は、一般には洋式兵学者として知られていますが、政治思想史の上でも有名で、幕末のすぐれた先覚者でもありました。
墓は総高1m余りで、正面に「良鑑院松屋赤心居士」と小三郎の法名がやや深みのある彫り方で刻まれています。
※上田市デジタルアーカイブポータルサイトより転載