寒松院の墓
2024.2.14 | 新田
種別 | 市指定 史跡 |
指定 | 昭和四十六.四.八 |
所在地 | 新田 |
所有者 | 大輪寺 |
大輪寺境内東方墓地に葬られた寒松院の墓
大輪寺の華麗な山門
寒松院は、初代上田城主真田昌幸の夫人で、長男(幸)、次男(幸村)の生母です。生前は山之手殿、または今日のと呼ばれていました。大輪寺伝によると寺は、もと砥石城(旧神科村)の東の「」にありましたが、昌幸が上田築城の時、夫人のによって現在地に再建された禅寺と言われています。
夫人は天正十年(一五八二)武田氏滅亡の前は人質として、の新府城(山梨県市)に、また、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦の際も人質として大阪城に居ましたが、豊臣方に味方することに決した昌幸の知らせを聞き、ひそかに大阪城を脱出して上田城に帰りました。
夫昌幸が慶長十六年(一六二二)高野山で世を去った二年後、慶長十八年に亡くなり、それからは寒松院と呼ばれました。夫人の出身には諸説ありますが、高野山蓮華定員過去帳には、「今日の公家の娘で武田信玄の養女として昌幸に嫁ぐ。」と記されています。京の御前様と呼ばれたのをみても当を得ていると考えられます。また天正七年ごろと推定される検地帳には「京の御前様」として、本原地区一帯(上田市真田町)に多くの土地も所有していました。
※『上田市誌 上田市の文化財』(執筆担当 久保浩美)から転載