竹内善吾武信の墓
2024.2.14 | 新田
種別 | 市指定 史跡 |
指定 | 昭和五十三.四.八 |
所在地 | 新田 |
所有者 | 呈蓮寺 |
竹内善吾武信墓
江戸時代の文化年間(一八〇四―四四)にかけて、日本で一、二ともまでいわれた算術(算数)の学者は、上田市出身の人です。
その人は算術の竹内善吾武信です。竹内善吾のお墓は、呈蓮寺境内の墓地にあります。
善吾は天命二年(一七八二)上田市山田の農家の子供として、生まれ、子供の時の名前を「」といいました。熊蔵は幼いころから(算数)が大好きでを使った特別の方法による割算は他に並ぶ者がなかったといわれています。
熊蔵は、もっと勉強をしようと思っても家が豊かでなかったので、昼間は商家で働き、夕方から小諸までの往復一〇里(四〇㎞)の道のりを休むことなく通って学んだという努力家でありました。
この後、江戸へ出て関流の算術家の門下に入り、算術のほかに測量術やなどを会得しました。そして自ら新しい学問の分野をあみ出すなどして、天下に名声を博しました。
このことは当然、ときの上田藩主にも知られることになり、文化8年(一八一一)農民としては異例ともいえる詩文にとりたてられ河川工事や農地の調査測量などの係を担当しました。
翌年、名前を「善吾武信」に改めました。天保十二年(一八四一)江戸で作られた「」の番付では、東の大関(この番付に横綱はない)となり名実ともに日本一となりました。
嘉永六年(一八五三)七十一歳で病気のため亡くなりました。は、両親が眠る呈蓮寺の竹内家の墓地に葬られました。
墓は総高一〇八㎝余りで、先端をわずかとがらせた四角柱の石に竹内善吾武信とやや深みのある彫り方で刻まれています。
※『上田市誌 上田市の文化財』(執筆担当 北澤伴康)から転載