開善寺宛武田信玄寄進状
2024.2.14 | 新田
種別 | 市指定 古文書 |
指定 | 昭和五四.四.九 |
所在地 | 上田市立博物館 |
所有者 | 海禅寺 |
開善寺宛武田信玄寄進状
たて34.3㎝ よこ48.0㎝
海野郷から上田城下の新田に移された今の海禅寺
この文書は武田信玄が「昨年開善寺に出した定書の通り、今年(永禄六年一五六三)から寺に土地を返したり、寄進する。」と開善寺の別当に申し渡した寄進状です。
この寄進状では昨年出した定書の事を願書と記しています。
寄進状を読むと「策に(昨年)出した願書の通り、十坊(層の住む十の住居)や太鼓免(太鼓を打って仏事を行う費用を生み出す土地)の土地として、三十六貫五百文を、今年から返すことにするから、臨時の法事として仏前で毎日法華妙典(法華経)二巻を唱えるようにすること、もしそれによって、武田氏の武運が長久に栄え、治めている領地が平穏になったら、残っている寺の土地も、前にきめた通り寄進することにする。」と書かれています。
このことにより、武田氏が天文十年(一五四一)に、海野氏を攻め滅ぼしたとき以後、開善寺の寺領も没収されていたことがわかります。
このような文書によって、武田信玄が占領した地域の、寺社を大事に扱うことによって、地元の人心を安定させる方法の一つと考えていたことを、うかがい知ることが出来ます。
なお、定書の宛名は、開善寺大坊となっていますが、この寄進状では、別当御房となっています。別当はこの寺の事務長のような役です。したがって開善寺は大坊と別当によって管理されていた、大きな寺であったことがわかります。
開禅寺の文字は、ほかに海善寺、海禅寺とも書かれたものがあります。
※『上田市誌 上田市の文化財』(執筆担当 小池雅夫)から転載